2012年4月29日日曜日

太田茶臼山古墳

○概要
墳長はおよそ230mで、後円部の径はおよそ140m、前方部の幅はおよそ150m。馬蹄形の周濠が巡るが、かつては二重濠であったと推定する向きもある。周囲には陪冢と考えられる小古墳も点在している。宮内庁によって継体天皇の三島藍野陵(みしまのあいののみささぎ)に治定されている。藍は、三島が島上郡と島下郡に分かれる以前の広範囲の地名であり、この古墳の北西には安威(あい)という地名が残り、安威川が流れる。
○規模
全長226m
前方部幅147m
前方部長117m
前方部高19.8m
後円部径138m
後円部高19.2m
濠幅約28~33m
○発掘
昭和61年(1986年)には外堤の、平成14年(2002年)には墳丘本体の護岸工事を前提とした発掘調査が宮内庁によって行われており、大量の円筒埴輪のほか、馬形埴輪、甲冑形埴輪、水鳥形埴輪、須恵器片などが出土している。宮内庁管理区域外では大阪府教育委員会や茨木市教育委員会によって発掘調査が行われており、外堤上の埴輪列や、陪冢に使用されていたと見られる形象埴輪などが出土している。
○治定
『日本書紀』では、継体天皇25年(531年)2月に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)で崩御したとあり、同じ年の12月に藍野陵に葬られたという。『古事記』は三島の藍の御陵としている。藍原の地形は、継体天皇が没した当時は原野であったであろう。『延喜式』には、摂津国嶋上郡にあると書いているが、これは平安時代前期の陵墓掌握であって、それが必ずしも真陵であるかどうかは別である。江戸時代中期に継体天皇陵に比定されたが、文献史学の立場からは、延喜式記載の所在地と異なるという問題点が早くに指摘されていた。さらに、出土埴輪の特徴は、5世紀中頃のものと考えられているもので、考古学的にも527年 (古事記) ~ 534年 (日本書紀或本云) に没した継体天皇の陵ではありえないという意見が研究者の大勢を占める。これに対し、東へ1.5キロほどの所に所在する今城塚古墳は、所在地および考古学的に推定される築造年代が文献に記される継体天皇陵としての条件に合致する上、当該期の古墳の中では隔絶した規模を持っており、こちらこそが真の継体天皇陵と考えられている。なお、現在知られている当古墳出土埴輪のほとんどは大阪府高槻市に所在する新池遺跡で製作されたものであることが明らかとなっている。
所在地:大阪府茨木市太田三丁目







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