2013年4月26日金曜日

顕証寺

顕証寺は、大阪府八尾市久宝寺にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は近松山。久宝寺御坊ともいう。 かつて、周囲に寺内町を形成し、現在もその町並みをとどめている。
○歴史
伝承によれば、顕証寺のある八尾市久宝寺地区には、飛鳥時代に聖徳太子が「久宝寺」を創建したといわれている。顕証寺西側の許麻神社(こまじんじゃ)境内には太子創建を伝える久宝寺観音院があったが、明治の神仏分離で廃絶した。文明元年(1469年)、本願寺8世法主蓮如は、近江近松(滋賀県大津市)に顕証寺を創建し、初めは長男順如、その死後は6男蓮淳に住持させた。これは後の本願寺派近松別院となり、寺号は後に久宝寺御坊顕証寺に引き継がれた。そのため、戦前まで近松別院は八尾の顕証寺が法要を勤めていた。文明2年(1470年)、蓮如は河内渋川郡(現・大阪府八尾市など)を訪れて布教活動を始めた。当初は同地にあった慈願寺(現・八尾市本町)を本拠としたが、明応年間(1492年 - 1501年)、久宝寺跡に「西証寺」を建立した。この時、近くにある久宝寺城主の安井氏は地域住民が一向宗に与するのを見計らい、地域支配を維持するために創建に協力している。蓮如の11男の実順を住持とし、ここを河内一向宗の中心道場とした。しかし実順は永正15年(1518年)、25歳で没し、その跡を継いだ子の実真も享禄2年(1529年)に13歳で早世したため、近江顕証寺から蓮淳を迎え、その時に「顕証寺」と寺号を改めた。戦国時代に入ると、戦乱を防ぎ、門徒の団結をはかるため、天文10年(1541年)頃に久宝寺御坊を中心に周囲に二重の堀と土塀を巡らし、その内側に碁盤目に道を巡らした寺内町を作った。寺内町では久宝寺御坊がいっさいの支配権をもち、安井氏がこの権利を委されていた。戦国時代が終わると、本願寺の東西分裂に端を発して、慶長11年(1606年)、一部の住人は安井氏と対立して久宝寺寺内町を出て、大和川(現在の長瀬川)の対岸、八尾の荒地を開墾し、八尾御坊(現、真宗大谷派八尾別院大信寺)を中心に八尾寺内町を作った。慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて徳川家康と豊臣秀頼が衝突した大坂冬の陣・大坂夏の陣において、この地域は主戦場のひとつとなり、辺りは焼き払われ、焼け野原になった。現在の本堂には江戸時代中期・正徳6年(1716年)の棟札があり、この年再建されたものとわかる。江戸時代前半頃には八尾街道の中継地として栄えたが、宝永元年(1704年)の大和川付け替えを境に、地域の中心は久宝寺から八尾寺内町に移っていった。
○西本願寺・大谷家との関係
蓮如の子蓮淳を開基とし、大谷宗家に準ずる連枝格寺院である。また、住職から歴代宗主(門主)を輩出している。
顕証寺第11代寂峰は、亀山本徳寺8世住職の寂円連枝(大谷昭尊)の子として生まれ、当山住職就任後、本願寺第16世宗主湛如の急逝を受け、本願寺第17世宗主法如となる。
顕証寺第13代暉宣の子は、一旦は顕証寺住職を継ぐも、本願寺第20世宗主広如となった。広如の実子に本願寺第21世宗主明如がいる。
顕証寺第14代摂真の子は、広如の養子に迎えられ、徳如となるが宗主を継職せず遷化。なお、摂真は二条家(二条治孝)から室を迎えている。
顕証寺第16代近松尊定は、鏡如(大谷光瑞)引退を受けて浄土真宗本願寺派管長代理を務めた。近代以降は近松姓を名乗っている。
○所在地
大阪府八尾市久宝寺4-4-3

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