2013年12月22日日曜日

神呪寺

神呪寺(神咒寺)は兵庫県西宮市甲山山麓にある仏教寺院。山号は甲山。真言宗御室派別格本山。甲山大師とも呼ばれ、地元では「お大師さん」とも呼ばれている。寺号の「神呪寺」は、「神を呪う」という意味ではなく、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を神の寺(かんのじ)としたことによるという。なお、「神呪」(じんしゅ)とは、呪文、マントラ、真言とほぼ同義で、仏の真の言葉という意味がある。開山当時の名称は「摩尼山・神呪寺(しんじゅじ)」であり、「感応寺」という別称もあったようだ。
○歴史
鎌倉時代末期の禅僧、虎関師錬の『元亨釈書』「如意尼伝」に神呪寺の開基について、記載がある。 それによると、神呪寺は第53代淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。一方、『帝王編年記』には、淳和天皇皇后の正子内親王が天長4年(827年)に橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせたとある。皇太子時代の淳和天皇は夢告に従い、京都頂法寺にて、丹後国余佐郡の娘と出会い、これを第四妃に迎えた。古代、丹後の国は中央氏族とは別系統の氏族(安曇氏などの海人系氏族)の勢力圏であり、大王家に対し后妃を出す氏族であった。この余佐郡の娘もまた、海人系の有力な豪族の娘であった可能性は高い。『元亨釈書』によれば、淳和天皇第四妃は、如意輪観音への信仰が厚く、念願であった出家するために天長5年(828年)にひそかに宮中を抜け、今の西宮浜から甲山へと入っていった。この時、妃は空海の協力を仰ぎ、これより満3年間、神呪寺にて修行を行ったという。天長7年(830年)に空海は本尊として、山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったという。この如意輪観音像を本尊として、天長8年(831年)10月18日に本堂は落慶した。同日、妃は、空海より剃髪を受けて、僧名を如意尼とした。如意尼が出家する以前の名前は、真井御前(まないごぜん)と称されていた。 この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であった。空海もまた海人系の氏族の出身だったといわれ、如意尼と空海は海神系氏族としてつながりがあったとする見方もある。また、神呪寺の鎮守は弁才天であるが、この神は水を支配する神でもあり、水運に関係のある者は古来より信仰を深めてきた。鎌倉時代初期には、源頼朝が再興する。境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある。 戦国時代には兵火により、荒廃した。現在の本堂は江戸時代の再建。当初の寺領は淳和天皇より、150町歩の寄進があり、合わせて250町歩となったが、現在は境内地の20町歩となった。山号は「武庫山」であったが、光玄大和尚が現在の「甲山」に変更した。神呪寺の住所は、上記の通り甲山町であるが「神呪町」が寺の南西約3km離れた、新幹線と阪急今津線の交差点付近に存在し、この寺と繋がりのある地名であるとも言われている。
○信仰
神呪寺の本尊・如意輪半跏(はんか)像は、河内観心寺、大和室生寺の如意輪観音像と合わせて、日本三如意輪と呼ばれている。家業繁栄・商売繁盛のご利益があるとされ、秘仏となっている。融通さん、融通観音とも称されている。5月18日に融通観音大祭があり、本尊の開扉がある。大師堂に祀られている弘法大師像は、大師58歳の姿で、厄除大師として信仰されている。甲山大師と称されている。
○文化財
重要文化財(国指定)
木造如意輪観音坐像
平安時代。当時の本尊。寺伝にいう空海の時代の作ではなく、10世紀後半から11世紀前半の作とされる。如意輪観音像には6臂像と2臂像があるが、この像は6臂像である。通常の如意輪観音像は右脚を立て膝とするが、本像は右脚を斜めにして左脚の上に乗せた珍しい形をしており、頭部が斜め上向きになっている点と合わせ、図像的に珍しい作例である。
木造聖観音立像―平安時代
木造不動明王坐像―鎌倉時代
木造弘法大師坐像―鎌倉時代
その他
山門―江戸時代(1804年)建立、三間一戸八脚門(中央高屋根四脚門)
○札所
新西国三十三箇所観音霊場第21番
摂津国八十八箇所第75番
摂津西国三十三箇所第3番
札所本尊は、如意輪観音
仏塔古寺十八尊第17番
○他
甲山八十八ケ所-1798年創設(西宮まちなび博(甲山八十八ケ所巡り))
○所在地・アクセス
〒662-0001 兵庫県西宮市甲山町25-1
阪急甲陽線甲陽園駅下車 徒歩30分
阪急・阪神バス 甲山大師前下車
阪急今津線逆瀬川駅下車 阪急バスかぶとやま荘ゆき かぶとやま荘下車、徒歩15分 またはかぶとやま荘から西宮甲山高校前まで歩き、乗り換え、甲山大師前下車
















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