2014年12月28日日曜日

能因塚

この塚は能因法師墳とも言われている。この塚は平安時代中期の歌人能因法師の墓と伝えられる。能因は名を橘永愷といい、都で官人としてつとめながら、歌道の第1人者であった藤原長能に学んだ。30歳の頃出家し、能因と改めた。晩年、女流歌人である伊勢姫が隠棲したこの古曽部の地に居を構え、歌道に専念し、古曽部入道とも呼ばれた。能因はここを拠点として各地を旅し、「都をば、霞とともに、立ちしかど、秋風ぞ吹く、白河の関」等、優れた作品を多数残している。能因塚は、東西16メートル・南北25メートル、高さ約1.8メートルの墳墓である。南正面の碑は、1650(慶安3)年、高槻城主永井直清により立てられた。碑文は林羅山の手になるもので、能因の事跡が刻まれているが、風雨にさらされ、下部は磨耗している。能因塚の周辺には、「文塚」「花の井」「不老水」など、能因ゆかりの遺跡が点在している。文塚は、能因の和歌の草稿を埋めた所といわれている。
所在地:大阪府高槻市古曽部町3


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