2015年1月15日木曜日

昆陽宿

江戸時代の昆陽村は西国街道の宿駅でした。村内は、東町・中町・大工町・市場町・辻町・佐藤町・小井之内の7町からなり、人馬継問屋には、御用通行の役人や旅人の荷物の継立てを行う人馬が用意されていました。天保14(1843)年の資料には、家数174軒・人口913人・本陣1軒(佐藤町)・旅籠7軒・人馬継問屋1ヶ所(市場町)であったことが記されています。当時、宿駅の人足や馬を利用する場合、旅行者は各宿駅で荷物の積み替えを行い、これを「継ぎ立て」と称しました。人馬継問屋には、御用通行の旅人のために、25人の人足と25匹の馬が備えられ、西は西宮宿まで、東は瀬川半町宿までの継ぎ立てを行いました。西宮宿までの賃銭は、御用通行の場合、御定め賃銭といって、馬1匹分の荷物の駄賃が86文、人足1人分の駄賃が43文、瀬川宿までは馬80文、人足39文と定められていましたが、商人や一般の旅人の賃銭は、馬方と利用者の相互で取り決められ、御用通行の場合よりも高額でした。宿駅の人々の負担によって成り立っていたこの様な交通制度は、住民に大きな経済的負担を強いることが多かったため、幕府の許可の下に、年限を限って御定め賃銭の割り増しが行われることもありました。長い年月にわたり、御用継ぎ立てを担ってきた昆陽宿は、明治5(1872)年8月、江戸時代の宿駅制度が廃止されるとともにその任務を終えました。
所在地:兵庫県伊丹市昆陽8丁目4番地



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