2015年4月20日月曜日

懐徳堂旧祉碑

享保8年(1724)、三宅石庵と中井甃庵を教授に迎え、5人の町人が出資して、町人のための私塾、懐徳堂を創設。教養としての学問ではなく実用的な学問を教えた。朱子学を中心としながら、各派の説を取り入れる自由な学風は、大阪商人にあっていたといわれる。2年後、甃庵らの奔走により、幕府から大阪学問所として公認された。なお、懐徳堂の名の由来は「論語」、「詩経」、「書経」からとする諸説があり、推測の域を出ない。武士が幅を利かせていた江戸時代に会っても、武士は人口の1割にも見た図、民主主義の精神があった。懐徳堂では、武士が教室の上座に座る習慣をなくして自由にした。貧しくても学ぶ意欲があれば講義に出席できるようにし、商人の都合に合わせて相対遅刻も出来た。当時は「商売」をさげすむ風潮が強かったが、懐徳堂では「商売」を評価し、何よりも大切な「人の道」を説いた。やがて全国でも有名な塾へと発展を遂げ、山片蟠桃はじめ多くの知識人を輩出した。140年以上の歴史を築いた懐徳堂は明治2年(1869)、閉塾に追い込まれる。しかし、西村時彦がが中心になり、財界の協力を得て大正5年(1916)、場所を移し再建された。碑は、もとの懐徳堂の地に建てられている。昭和20年(1945)、大阪空襲により、懐徳堂は鉄筋3階建ての書庫を残して消失した。蔵書3万6千冊は、大阪大学に寄贈。懐徳堂文庫となり、現在も管理・研究が行われている。
所在地:大阪府大阪市中央区今橋3-5(日本生命保険ビル南側壁面)
最寄駅:大阪市営地下鉄御堂筋線淀屋橋駅、京阪電鉄淀屋橋駅



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