2017年9月20日水曜日

一運寺

住吉大社の摂社・大海神社の東側に隣接する一運寺(浄土宗) に大石内蔵助・主税父子と寺坂吉右衛門の墓がある。リーダの大石内蔵助良雄(よしたか)は、代々家老職を務める家柄で、1500石の扶持を得ていた。討ち入りの主役であり、映画やテレビでは、恰幅のよい役者がそれを演ずるが、事実は痩せっぽちの小男であったらしい。良雄は8歳の頃、朱子学の観念論化を批判して幕府からにらまれ、赤穂に配流された兵学者山鹿素行から、その教えを受け、また、16~7歳頃には、京で伊藤仁斎の堀川塾に学び、武芸は東軍流の剣豪奥村無我より剣術免許皆伝を授かっている。太平の世で、事件が起きなければ、平々凡々の一生を過ごしたと思われるが、事件発生後は城明け渡しから、討ち入りまでまで、性格や意見も違う同志を統率し、目的達成を果たしたリーダーシップ振りには感嘆させられる。45歳で切腹。内蔵助の長男である主税良金(よしかね)は 部屋住であったため、当初内蔵助は義盟に加えるつもりは無かったが、父と行動を共にしたいという本人の意志が強かったため、元服をさせ、名前も幼名の松之丞から主税と改めた。同志の中では最年少で、切腹したときは僅か16歳であった。寺坂吉右衛門信行は討ち入り同士の中で、唯一を免れた義士であるがその経緯には諸説あるようだ。身分は同志の1人吉田忠左衛門の足軽で、討ち入り本懐を遂げた後、泉岳寺に向かう途中、寺には入らず立ち去っている。「逃亡説」を始め、大石内蔵助の意を受けた「生証人説」等々、義士研究家の間では論議が盛んであるが、吉右衛門自身は広島浅野本家に報告後、忠左衛門の娘婿である、姫路藩士伊藤十郎太夫宅に身を寄せ、伊藤十郎太夫の転封にも、越後-三河刈谷-下総古賀とつき従い、忠実に働いている。後、旗本山内主膳家にも仕え、83歳で没している。(討ち入り当時は39歳であった)
所在地:大阪府大阪市住吉区住吉2-6-23
最寄駅:阪堺電軌「住吉」下車東へ、「大海神社」の斜め前






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